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暴走する脳科学(河野哲也)③

ベンジャミン・リベットの実験について(p.144-)

手を動かそうと決める約350ミリ秒前に、すでに脳内で準備電位が生じていたという実験。リベットの解釈は以下のよう。

「自発的な行為に繋がるプロセスは、行為を促す意識を伴った意志が現れるずっと前に脳で無意識に起動します。これは、もし自由意志というものがあるとしても、自由意志ご自発的な行為を起動しているのではないことを意味します」


・リベットの自由意志擁護論

意識的意図は脳の準備電位に遅れて生じるが、それでも意図が意識されてから運動開始までまだ200ミリ秒程度の猶予がある。ここに、我々の意識が介入する余地がある。すなわち、発動している運動をそのまま行うか、それとも「拒否権」を行使して運動を中断させるかを選ぶことができる。

リベットはこれを「拒否権仮説」と呼ぶ。意識は、いわば「すべからず」という形で自由を行使する。


・柔らかい決定論(ホッブス、ヒュームなど)

決定論における必然性と人間の自由は両立可能とする。

我々の欲求や行動が、脳を含めた我々の内部のメカニズムからの必然であったとしても、その必然に従っていること自体は決して「不自由」ではない。自由とは、他人や社会などの外部からの強制や拘束、束縛がないこと、つまり自分が欲したままに振る舞えることである、という考え方。


デカルト的誤り

以上の議論はすべて、「意図的な行為とは、決意によって引き起こされた身体行動の事である」というデカルトやロックの考え方を前提としている。

しかし、決意がなくとも意図的な行為は行われる。

たとえば顔を洗うという行為は意図的なものだが、朝起きてから顔を洗うまでのあいだ、どこかの時点ではっきりした決意や決心をすることは少ない。


「さあ、やろう」という決意は、身体を動かすときに我々が発する「どっこらしょ」のような掛け声や気合いのようなものであり、意図的な行為が発動するのに、そのような決意などあってもなくてもいい。


・人間はいつ決意するか

税理士資格をとる勉強をしようと決意したとする。それは、いま信頼できそうな予備校のパンフレットを見つけたときだろうか。それとも現在の会社勤めを辞めて独立したいと考えはじめた数ヶ月前だろうか。それとも企業で与えられた仕事にそれほど関心をもてず、大学で学んだ経営学を活かした仕事がしたいと考えていた二年前だろうか。それとも経営学が好きになった、あの学生時代のときらだろうか。


意図的な行為は決意とともに始まるのではない。

行為の動機は、時間的・空間的に広がりを持っている。

ダニエル・デネットは、意志的な決断が起こる瞬間が存在するというのは一種の神話であり、リベットの議論も幻想であると論じている。


・意図的な行為とは

ヴィトゲンシュタインの弟子アンスコムは、意図的な行為とは「なぜ」という問いに対して、理由や目的をもって答えられる行為だと指摘した。

自分の行動がどのような文脈のなかで行われ、それが周囲の世界にどのような影響を及ぼすか知っていながら行うことが、「意図的」ということである。

意志するとは、行為を発する決意のことではなくて、ある目的を達成するように自分の行動を調整することである。


                                ※    ※    ※    ※


自由意志に関しては最近考えてたから、リベットについてまとめてあってタイミングが良かった。

手をあげよう、と思うことは、手をあげることではない、と。リベットのいう意志は内言、つまり発声しない言語のようなものなので、それは行為に対する見通し(それこそ「決意」)や振り返りであって、行為そのものの実行とは直接繋がっていないだろうと思う。



暴走する脳科学(河野哲也)②

○心的カテゴリーの歴史(p.122-)

現在の心的機能のカテゴリーはどれだけ自然か。


・知(認識)、情(感情)、意(意志)の三分類(p.122-)

ドイツの哲学者テーテンス(1736-1807)に始まる。経験を内観する仕方によって、心的活動「受動的と能動的に二分して、受動的なものが感情、能動的なものが思考と意志であるとした。この分類がカントに影響を与え、知識界一般に広まる。


・知能(intelligence)、知性(intellect)、理性(reason)(p.124-)

心理学史家ダンジガーによると、知能のみが心理学のテーマとなっているのには、必然的な理由がある。

それはダーウィニズムの影響による。動物と人間の知的能力は程度の差にすぎないとされるようになり、人間特有という含意を帯びた「知性」や、客観的・集団的な道理である「理性」は不適格であり、「知能」が採用された。


・情念(passion)と情動(emotion)(p.126-)

「情念」が使われなくなったのは経済思想からの影響。マンドウィルが『蜂の寓話』(1714)で「私人の利益追求の情念が公共の利益をもたらす」と主張。これに対し、アダム・スミスの師ハッチンソンはこの主張に制限を与えようとした。

ハッチンソンは、目的意識をもった富や権力を追求する静かな欲望と、その場かぎりの激しい情動を区別すべきだと主張した。(公共の利益を生み出すのは前者)

この区別がヒュームにおいて、「動機(motive)」と「情動(emotion)」という概念に整理され、現在まで受け継がれている。


○心理は社会的なもの(p.132-)

科学が客観的であることと、それが特定の視点や関心から対象に関わっていることは矛盾せずに、両立する。いかなる科学も、最初に扱う対象を一定の仕方で限定し、対象集合を確定する。このコレクションの仕方に、その科学が対象を扱う際の根本的な視点や関心が反映されている。その視点や関心が、特定の社会的関心を表現していることもありうる。


○心的機能に対するジャネの批判(p.137-)

心的機能という概念は、もともと心理現象を範疇化して分類するためのものであるにもかかわらず、あたかも機能が独立した実在する動力であるかのように実体化されがちである。そうした機能の実体化は、反復される現象の背後には同じ力が働いているかのような幻想を与えるものである。同じ現象であってもそれを生み出すメカニズムは複合的で、単一の機能から生み出されるとは限らない。

暴走する脳科学(河野哲也)①

○道具は心の一部(p.66-)

脳だけで可能になる心理作用など存在しないだろう、という話。

たとえば多くの計算は、心の中だけ、脳の内側だけで成立せず、鉛筆と紙が必要になる。


ヴィゴツキーによれば、高次の心理機能とは、記号などの高次の手段を媒介としてら成立する機能のこと。高次なのは、ツールの方。

高次の現代数学の計算も、高度の心理的ツールと単純な反射運動の組み合わせに過ぎないのかもしれない、と。


○身体性(p.73-)

脳が行う制御は、身体の特性や振る舞いが環境に対して一定の効果をもちうることを最初から前提としている。単純にいえば、脳の方が、身体の能力、身体がもつ外界への効力に完全に依存している。

もしも人間が昆虫のように変態するとしたら、その身体の変化を考慮せずに脳だけ研究することは無意味である。


○機能局在論の歴史(p.110)

ガルの骨相学

→ガルの弟子ブイヤールが失語症を局在論で説明

→これに影響を受けたブローカが1861年パリ人類学会で運動性失語について報告(はじめて骨相学にとらわれず、大脳皮質に心的機能を定位した)


○骨相学における自由の可能性(p.111)

ガルによれば、脳は複数の器官の集合体であり、それぞれの器官は独立に動いている。そこで、人間はひとつの器官を他の器官に対抗させるように働かせる余地が残されており、それによって比較的自由なのだ、とのこと。


規則と意味のパラドックス(飯田隆)

○後期ウィトゲンシュタインについて


「哲学的誤解はすべて、われわれが自身の言語を誤解するところから来るのだが、それを正せばもはや誤解におちいらないですむような、言語に対する理解の仕方があるわけではない。

むしろ、われわれが日常的に用いる無数の言い回しのひとつひとつに罠が仕掛けられているのであって、そのそれぞれに対して対処の仕方は違うのである。」(p.127)


ことばを論理学的な記号に置き換える考え方はこの点で危ういと思う。

「犬は犬です」は「A=A」と置き換えることはできないということ。



○推論は技能知である(p.190-)

自転車にのれるようになるように、推論もできるようになる、ということ。

推論は明示的規則からなるものではなく、経験から身について自然と行われるもの。理性とか頭でっかちに考えて行うようなものではない(ことが多い)。


脳科学の方の、小脳が運動だけではなくて推論などにも関係しているという最近の研究もいってることは同じ。



「推論を正当化するためには推論のルールは何ら必要ではない。というのももし必要であったならば、そのルールを正当化するための別のルールが必要であったであろうし、それは無限後退に導くであろうからである。」(『ウィトゲンシュタインの講義I−ケンブリッジ1930−1932年』p.107)


と。




ボードレール書簡(6)

けにち ボードレール 書簡

オーピック夫人(=母)宛。パリ。1837年8月3日。

 

僕が恨んでいるのはウージェーヌ・シュー

 

この頃はまだ『パリの秘密』を上梓する前。『パリの秘密』は読んでみたい気もする。

 

僕を楽しませてくれたものといっては、ヴィクトール・ユゴーの劇[ドラマ]、詩、そしてサント=ブーヴの一冊の本(『逸楽』)しかありません。

 

僕は全く文学が嫌になってしまいました。

[…]

僕はもう本を読みません

[…]

お母さんを思っています

[…]

すくなくともお母さんは無窮の本です

 

(『ボードレール批評4』 阿部良雄訳 / ちくま学芸文庫

ボードレール書簡(5)

けにち ボードレール 書簡

オーピック大佐宛(パリ 1838年7月17日)
 

ヴェルサイユへ行きました。王[=ルイ=フィリップ]が、あらゆる王立の学校をヴェルサイユ見物に招いているのです。こと絵画に関して何も知りませんから、僕の言うことが正しいかどうか分かりませんが、良いタブローは数えるほどしかないと思われました。ひょっとして馬鹿なことを言うかも知れませんが、オラース・ヴェルネの何枚かのタブロー、シェフェールの二、三枚のタブロー、ドラクロワの<タイユブールの戦い>を除けば、 何の思い出も残ってはいません。

 
ボードレールが見学したのはヴェルサイユ宮殿内の展示室『戦闘の回廊』

⇒1833年:設計・建築開始→1837年6月10日:落成

フランス史上の戦争画が集まっていたこの大広間を、手紙が1838年なのでつまり落成から一年あまりの時分にボードレールは見学したことになり、後に追加展示されるものを除けば、ボードレールがこの時に目にしたと思われるのは以下の絵画ということになる。

オラース・ヴェルネの何枚かのタブロー

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 Bataille de Friedland, 14 juin 1807(1836)

 

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Bataille de Wagram, 6 juillet 1809(1836)

 

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Bataille d'Iéna, 14 octobre 1806(1836)

 

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Bataille de Bouvines, 27 juillet 1214(1827)

 

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Bataille de Fontenoy, 11 mai 1745(1828)

シェフェールの二、三枚のタブロー

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Bataille de Cassel, 23 août 1328(1837) Henry Scheffer

 

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 Charlemagne à Paderborn  (1837)Ary Scheffer

HenryとAryは兄弟ね。

 

 ドラクロワの<タイユブールの戦い>

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Bataille de Taillebourg [1242] (1837)


オラース・ヴェルネについては『1846年のサロン』でボロクソ言うことになります。

 

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La bataille d'Isly [1844] (1846年出品)

 

オラース・ヴェルネ氏は絵を描く軍人だ。ーー太鼓のどろどろと鳴る音に合わせて即興されたこの芸術、駆歩で塗りたくられたこれらのカンヴァス、ピストル射撃で作り上げられたこの絵画を私が憎むのは、軍隊を、武力を、平和な場所に騒々しい武器を引きずりまわすものすべてを憎むのと同様である。このとてつもない人気、… いや、この「民ノ声は神ノ声」は、私にとって一個の圧制に他ならない。

私がこの男を憎むのは、彼のタブローがいささかも絵画ではなくて、敏捷かつ頻繁な自慰行為であり、フランス人の表皮の刺戟であるからだ。

彼こそは芸術家というものの絶対的な反定立である。彼はデッサンに代えるにシックをもってし、色彩に代えるにどんちゃん騒ぎ[シャリヴァリ]を、統一に代えるにいくつものエピソードをもってする。彼はメソニエ張りの絵を世界のように大きく作るのだ。

Pour définir M. Horace Vernet d’une manière claire, il est l’antithèse absolue de l’artiste ; il substitue le chic au dessin, le charivari à la couleur et les épisodes à l’unité ; il fait des Meissonier grands comme le monde.

 
メソニエを引き合いに他画家をディスるさまは『群衆の中の批評家(阿部良雄)』でも冒頭から描かれていて、メソニエの携わるタブローを「顕微鏡的絵画」(『葡萄酒とハシッシュについて』)と形容したやり方そっくりに、次のように批判している。

オラース・ヴェルネ氏は二つの卓越した資質に恵まれているが、その一つは資質の欠落、もう一つは余分な資質である。情熱がまったく欠けている一方、暦さながらの記憶力なのだ![ l’une en moins, l’autre en plus : nulle passion et une mémoire d’almanach ]おのおのの制服にボタンがいくつあるか、数多くの行程を経て形の崩れたゲートルや靴はどんな様相を呈するのか、革具のどの場所に武具の銅がその緑青の色調を捺すものであるか、彼よりも良く知る者があろうか?だからして、何という巨大な公衆、何という歓喜!軍服や、歩兵帽や、サーベルや、銃や、大砲を製造するのにさまざまな職業が必要なのと同じだけのさまざまな公衆!そしてオラース・ヴェルネの一枚の絵の前に、栄光に対する共通の愛によって結集されたこれらすべての同業組合!何という見もの[スペクタクル]!

 
・・・眠くなってきたので流し

手紙に戻ります

 

さらにもう一つルニョーの、ジョゼフ皇帝の結婚式か何かを描いたタブローは例外として。しかしこのタブローは、まったく違ったやり方で際立っているのです。きわめて美しいと言われている帝政期のタブローはすべて、かくも規則的、かくも冷たく見えることが多い。その人物たち は多くの場合、木々のように、またはオペラの端役たちのように、きちんと並んでいます。かほどに賞めそやされてきた帝政の画家たちのことをこんな風に語るなんて、僕としてたぶんまことに笑止なことです。事によると出まかせにしゃべっているかも知れません。しかし自分の印象を報告しているだけです、事による とまた、ドラクロワを天まで持ち上げている「プレス」紙の記事を読んだ結果かも知れませんね。

 

ルニョーの、ジョゼフ皇帝の結婚式か何かを描いたタブロー

 ・・・これが見つからぬ

 

https://www.histoire-image.org/sites/default/contrat-mariagef.jpg

Marriage of Prince Jérôme Bonaparte and Frédérique-Catherine de Wurtemberg(1810)

Jérôme Bonaparte はナポレオン3番目の弟・・・ただ皇帝にはなっていない。もうひとりボナパルト家にジョゼフがいるものの21歳で未婚のまま夭折。つまり「ジョゼフ皇帝の結婚」とは調べる限り歴史的事実としてないはずなのだけど、若きボードレールの適当さで皇帝になってないけどしてしまったいう身も蓋もない線で終わります眠いので。さようなら。

 

(『ボードレール批評4』 阿部良雄訳 / ちくま学芸文庫

 

 

働かないアリに意義がある(長谷川英祐)

なおぴ

本筋に関しては特に感想ないので、断片的に面白かったところを。

 

 

・アリには一つの仕事をやり続けることによる熟練はない

 

昆虫の熟練について考えたことなかったので、面白いテーマだと思った。

熟練がない世界はどんなだろうと考えてみたり。

 

 

・20年以上生きた女王アリがいる

 

おどろいた。

 

 

・本当に働かないアリはコロニーを崩壊させる

 

意義がある「働かないアリ」は他のアリが働けない時には働く準備ができているアリのこと。

ただひたすら産卵をするだけの本当に働かないアリもいるとのこと。これが登場すると、散々増えるのに子孫も働かないから、システムが回らなくなってコロニーが崩壊すると。

「社会システムに寄生する利己的な裏切り者」と救いがないけど、

個人的には彼らにこそ意義があって欲しかった。

 

以上